2014年7月24日木曜日

たまごのピクルスやら、ウイスキーやら、熟した桃やら

たまごのピクルスをたべたことがある?

なんて訊かれたら

ないから驚いて見せるけど

その存在を知っていれば

驚くことにも演技が必要になる。


そもそも、驚くことなのかそうでないのかは

たまごのピクルスにまつわる

共有意識の有無だったり

興味の濃度だったり、

漬物とタンパク質代表選手の

立ち位置の差の認識だったりするかもしれない

が、そんなことどうでもよいと一昨日の引き出しに

未来への手紙をそっとしまう。

それはすでにたまご好きやピクルス好きの

魅力的話題づくりでもなく、

最後の晩餐から程遠い支流から離れた

取り残された池のような日々の泡。


そう、このたまごのピクルス、

メーカーズマークによく合うなぞ言われて

その相性で食べたいとは思わない自分がいる。

けれども、意外とバーボン好きのなかには

ステーキと一緒にバーボンのんだりする

ことを当たり前だとおもっている人もいて

その相性というより、その相性を好む人に

窓をあけて決して帰らない鳩を離すのだ。


さて、こちらはといえば

スコッチばかりを飲んで、生まれた国を忘れたかのように

バーボンはすっかり飲まなくなった。

それはそれを飲むと20代の自分を思い出すからか?

グランダッドを逆立ちして飲んだり

することもなかったが、逆流する事たびたび

よなよな10キロをふらふら千鳥足であるけるほどの

ガソリンにしかならない。

酒を飲んでいるのにすっかり知識を

飲むことになった輩になれば

後ろ手にしめる帰り際のバーの扉には

「後悔」ではなく「リグレット」、

もしくは「自己憐憫」と書いている。


よそよそしく感じる封を切ったばかりのスコッチにも

想い出は重なっている。樽で微かに揺れていた10年間に

自分がそいつの知らない場所で誰かに殴られ

誰かに接吻した記憶以外の忘れてしまった開けることのない

記憶がつまってはいるが思いだせない。

それはすでに処分された昔乗っていた自転車の鍵が

ひきだしのなかに

無数にある開けるためのカギだったものたちの中で

気に留められることを待たないでいるのに似ている。


barにふらりとはいることなく,満を持して

乗り込みスコッチだけで飲み倒して

気がつけばむだに富士そばで朝のそばをすする。

そもそも飲み倒すだけで

ウイスキーとの相性なんて考えない。

アテは「おれ自身」だというスタンス。

暖流にのってたまたま冷たいうみにやってくるクマノミのように

女性客が来ようものなら、意識して

意識したあげく、無意味に無口な男を装い

頭の中はむだにおしゃべりなオカマ芸者となる。

そもそもスコッチと食の相性など興味がない、

といいつつ、話のネタふりをされれば

その無口は雄弁に語りだす。

ボーモアと岩牡蠣の相性ほど鼻につくものはないけど

それはスコッチの鼻筋というやつか、とか、

ラフロイグの湯割りにつぶ胡椒をいれて

焚火にあたるというのは悪くない、とか

マッカランの10年のカスクストレングスリッター瓶と

フレッシュな熟したおんなのような桃との相性だとか

むだに自意識がスパークしつつ

アードベッグはやっぱりスモークしたたまごをたべながら

口蓋に黄身がくっついてなかなかはなれないなどといって、

たまごループをしてしまわないように

たまごのピクルスの話題はそっと

小さな胸にとどめて話さない。







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