2014年8月23日土曜日

ボクラシナプス

そんなことの方が多いなんて
あたりまえのことだけど、
検索してたとえ情報が流れてきたとしても
それはわかった気になった
サーフィンをしているにすぎない
あのおやじの恋の数やキミの好きな子の脇に
ほくろがあることなど
検索の網の目を充分にとおりすぎてしまう
すがすがしい青空。
この青空をキミは所有できないからこそ
すがすがしいのだ。
脳のシナプスが土にはる根のように
何かをもとめても何にも所有できない。
ただ、遠いイメージの連結を繰り返し
創造するだけだ。

ぼくらシナプス流れる
風に帆をはり腹に動力を孕み
虚空を移動して何かに繋がろうとし
何にもつながらずほろりと
産みだすのだ

2014年8月21日木曜日

マヨネーヅはわるくない

きみはなんでもかんでも
そいつをさしこむが
もとをただせば
油と酢と卵黄と塩と空気とエトセトラだ。
自意識ばかりが肥えてゆき
床に落ちた指で拾えないゼリーのように
暑い日にはイラットする監督どなる工事現場のように
騒音意外は意外と無機質に静かだ。
100メートルも歩けば
平日だというのに昼から
ボサノヴアギターのナイロン弦が揺れる音が鳴り
税金払えませんと遠くで戸が閉まる音が鳴る。
向日葵は種をびっしりつとその中心につけて
地面に頭をうな垂れて、
きみは「すきでもきらいでもない」と言うんだ。
宙にほおり投げ、その他大勢といっしょくたにされて
日がなかなか暮れない。

そう、マヨネーズはわるくない。

2014年8月9日土曜日

夏の匂い

銀行からの帰り道、

お爺ちゃんがお婆ちゃんを自転車の荷台に乗せ、
お婆ちゃんは少女乗りで、
こぎみよく夕暮れの中へ消えていった。...
二人のりは交通ルール違反だと

野暮なことはいいっこなしで、

夏もそろそろ音速で過ぎ去ろうとしている。

 

夏の諸問題といえば

もちろん腋の匂いだろう。

ジャンヌダルクのような女が

「鉛筆の芯の匂い」と形容したがる、その匂いだ。

存在を存在たらしめるあやふやな境界をもちつつ

明確に記憶や副交感、交感神経の門をバタバタ揺らし

刻まれるスパイシーな匂いだ。

ジンを飲み過ぎたりや沈黙でカニを食べ過ぎると

濃度が濃くなりもするという諸説はどうでもよく、

白ワインを飲み過ぎた顛末に

我が脇は微かにブドウのしぼり汁を含んだ

樽の匂いがして、さぞかしかぐわしいと思いきや

人にとっては不快なものだ。

自分の匂いは臭いと認識しつつも

なぜか惹かれる匂いだが、

ひとのその類の匂いは

相手のテリトリーに踏み込んだだけの

危険な香りがするものさ。

それを微かな香りにまで希釈すると

とてもいい香りになるのだと、

まことしやかに語られる話は少年の内奥に刻まれはするものの

大人になるまでひらかれない戸棚の奥にしまわれて

人の足音に時々カタカタ振動してみたりする。

ただ、そんな戸棚の引き戸をあけてしまった

俺に言えるのは、

密室のなかのカメムシは自分の屁で気絶する

そんな素直で自然な振舞いが神々しく想い、

見つけてしまったへその緒が木乃伊になって

過去の自分の顔が想いだせないということだけ。

 

 

2014年8月8日金曜日

流木

「その仕掛けじゃ釣れねぇよぉ」って

親切心とマスター気分で

話しかけてこようものなら

「そうでしょうね」と応えるつもりだけど、

はなっから糸と糸の結び方も知らないし

ひどく固く結ぶことだけが純情だと想いこんでいる

ふしがあるので、その全て悟りきったかのような

受け答えも失礼かと想い、

「初心者なんで」のひとことで

含みを持たせて

そのマスターモードに火をつけるか

「そっきゃ」と自分の世界に引き戻ってくれるかを

あたりさわりない行間で濁そうとする。


「んじゃ、これ使ぇ」と仕掛け一式をさしだそうとするのであれば

「ぼくは釣りになどきたのではありません、

釣りをしている風にしにきたのです」とも大人げなくも言えず、

「いやぁ、どうも」と一旦受け取ってみるものの

「いやぁ、どうだかぁ」と濁りに濁った返しをして、

「ありがとうございます、でも初心者なんで」と

期待をかけられても困るし、そんなに夢中でもないからといった

雰囲気を漂わせ、「けっ、教える甲斐もねぇ」と想わせるのだ。

そして、捨て台詞のように、ぼくは心の中で

「ここの夢が流れてくるのを待っているんで、その時は手づかみでいきます」

ってなことを抜かして、酢昆布でも頬張る。

「頬張る」というのはいささか酢昆布にはふさわしくはないが

口にふくむと言った具合だ。

そんなこんなめんどくせぇシチュエーションになるかもと

リスクヘッヂやら、淡い恋心とかをそんな仮想敵国にもちつつ

視線の圧のかかる左横をちら見すると

苔むした強大な流木だったりするから

積乱雲の静けさととヒグラシの声が身にしみる


2014年8月6日水曜日

柳腰

自分を愛せない人は

他者を愛すことは到底無理だなんて

決め台詞で酔った女が

無口な男を説教するバーカウンターは曇り始め、

おとこは勝手気ままに自分を愛し

勝手気ままに好きな酒をのみ

ありのままじゃない説教女を

柳腰でありのままに無視する。


「誰かのために」という必殺技で、自分の承認材料として

「自分のために」という懐刀を忘れてしまうことに似て、

「わがまま」を推奨するのもほどほどで、

それがほんとうに「自分のためか」どうかは

実のところわからない輩も多し。


たしかに「自分のため」というのは大事だ。

存在そのもの根幹。オートマチックな振舞いは

すべて「自分のため」なんだからね、と

ウインクする気持ち悪い自分に嘔吐まではしない。

それを承知なうえで

「ひとのため」にも生きられる。

だから、「人のため」ということを

嘲笑うものは根幹的に自分を

愛せていないということにも

意外と気づかない。

自分のために生きている奴は

「自分のために」を敢えて口にもださいなだろう?

どこまで不安なのだろうか。

うん、つま先だちの不安も悪くない。
存在というものはこのかたちを確認するように
存在を物や出来事や、空気に打ちつけ
輪郭を音や光でしりたがりもして、
一瞬に明滅するそのかたちの記憶が
もろいものだから不安なあまり
鍛冶屋が金床をうつように
だれだ、どこだ、なんだ、なぜだと
コツコツ打ちつける。




「自分のめに」が多面的に輝く。

自分とはどこまで自分なのか?

マインドで考えるレベルで自分なのか?

髪の毛先から、靴下の糸くずやらほこりやら

砂やらが詰った足の爪の先までが自分なのか?

皮膚と空気が触れ合うところまでが自分なのか、

エーテル、アストラル、メンタール、コーザルやらなんやら

ボディというボディを含めたボディが自分なのか

瓶の中のナッツはどこまでがナッツなのか

ナッツのはいった瓶はナッツなのか

ピスタチオのからはピスタチオなのか

殻がついてピスタチオなのか?

そもそも、自分の境はどこにあるか?

ないのか?自分までピスタチオなのか?

そうでないのか?などなど、

永遠に考えるほどこのダンスには体力が必要で

酔いが一気にまわるものだから

ロックグラスの中にこじんまりと鎮座する

丸氷だった氷をかみ砕いて

チェックと決め込み、

説教女はカウンターにへりくだり、

降伏しつつ、ときおりよだれなど

右腕でふきつつ夜は深まる。





2014年8月2日土曜日

ルール

いつからか自分のルールを作る。
そのルールが自分を縛ってゆくのだ。
縛っていないと流されてしまう小舟のように
錨をおとしてその場に立ち止まろうとする。
しかし、動いているのは舟ではなく
海であり陸地であり空である事に気付いていない。

そもそも「できるできない」という
考え自体も一瞬一瞬を楽にすごす保険のようなものだ。
それ自体は予見知であり設計図であり、
楽に泳ぐ事の出来る水たまり。
それはそれで楽しいこともあろうが、
自らの命が動く術を忘れてしまう。

いつからか作ったルールには
解除スイッチがある。
それを手放せばいいだけのスイッチ。
ルールをもたなければ
ルールは作動しない。
しかし、手放せないように
たくみにすりついている。
手放すにはあらたなルールをつくることだ。
しかも、そのルールに、
いつもそのルールをたたき壊すことができるように
もろくつくるのだ。
もろいということは永遠だ、

そして、ひとり乾杯とつぶやいた

乾杯をいわずに飲むひとり酒。

ありがちな句だ。ありがちすぎて、

だれもこないのに誰かを待つふりしたり

しながらピッチをあげようもんなら、

酔いは加速する。

しゃべる相手もいない。

店のオヤジは常連客と

下の話へと引き込もうとするが

なかなかその常連もその道にはのらない。

いつもの夕暮れがどうでもよくなる頃あいにまで

麻酔をかけられたようにひろがり、

プルーフロックのように敢えてなにかをしてみる気もおきない。




グラスの酒が底をついたときだけ

オヤジは「何かおつくりしやしょうか」と

上機嫌が鉢巻きしてデリケートゾーンの

痒みを抑えつつも小躍りして訊いてくる。

仕方ないこともないが「チェック」と

心でつぶやいてみるも

仕方なく「同じやつ」といってしまうほどの、

使い古されたパブロフな日々の縛り。

ピッチングフォームは型がなかなか収まることなく

中学で野球も引退するも、波の上の板には上手に乗れず、

欲望に扱われ慣れた陰謀論的な愛の手には

心地よく乗れる。




手元が狂い、醤油やソースの雫が

カウンターにちょいとこぼれようもんなら

おしぼりの角でさっと吹き汚れた角を下手に隠しては

チェックの瞬間を伺うが、

まだ、おやじの下ネタは着地点を見ず、

むだに熱くなり、

そして、ひとり乾杯とつぶやいた。























2014年8月1日金曜日

undone

夏になるとヤマウチ先輩を想いだす。

20代の夏、ぼくはニヒルが極まっていた。
それでもって、めちゃくちゃ人を責めたし、
自分も責めたし、プール1杯ぶんのビールを
1年間で飲む勢いだったし(飲めないけど)、
最終的に誰とも話さなくなりひどい虫歯にもなった。

その時の自分が今の自分をみたら、
さらに少しがっかりするかもしれない。
夢は密かに大きかったのかもしれないから。
けど、好きにはなってくれると想う。
まあ、その夏はとにかく自分を責めていた。

ところで、
あるがままって、
自分を責め続けない事だと最近想う。
自分を責めることと
自分のいいじゃんと想うこともちゃんと認めることは、
結構、これ同じベクトルのうえにある。
じゃあ、心地よい波にのったほうがいい。

そんなデスぺラードなコニシくんに
ヤマウチ先輩が見かねて、
「学校といえども社会だから、
不快なやつはだれからも愛されない。
コニシくんやばいよ。今の状態。」って言ったんだ。
このことばでコニシくんに社会性が少し芽生えた。
愛されたいがあまり、自分を投げ捨てて
かまってちゃんになっていたわけだ。
ありがたや、ヤマウチ先輩。

わがままなひとほど
自分で立つことを忘れるし、
人に答を求め、それを鵜呑みにするし、
愛されたいと人一倍に思っている、そして、
自分を責めもするが、
ダメだと勝手に決めた自分を正当化するし、
自分を違う何者かに巧妙にすりかえる。
わがままなひとほど
わがままであることにきづかない。
決してそんなのあるがままでも素直でもない。
だけど、20代の自分に
御苦労さん、
そして、サンキューといってあげたい。