2014年8月6日水曜日

柳腰

自分を愛せない人は

他者を愛すことは到底無理だなんて

決め台詞で酔った女が

無口な男を説教するバーカウンターは曇り始め、

おとこは勝手気ままに自分を愛し

勝手気ままに好きな酒をのみ

ありのままじゃない説教女を

柳腰でありのままに無視する。


「誰かのために」という必殺技で、自分の承認材料として

「自分のために」という懐刀を忘れてしまうことに似て、

「わがまま」を推奨するのもほどほどで、

それがほんとうに「自分のためか」どうかは

実のところわからない輩も多し。


たしかに「自分のため」というのは大事だ。

存在そのもの根幹。オートマチックな振舞いは

すべて「自分のため」なんだからね、と

ウインクする気持ち悪い自分に嘔吐まではしない。

それを承知なうえで

「ひとのため」にも生きられる。

だから、「人のため」ということを

嘲笑うものは根幹的に自分を

愛せていないということにも

意外と気づかない。

自分のために生きている奴は

「自分のために」を敢えて口にもださいなだろう?

どこまで不安なのだろうか。

うん、つま先だちの不安も悪くない。
存在というものはこのかたちを確認するように
存在を物や出来事や、空気に打ちつけ
輪郭を音や光でしりたがりもして、
一瞬に明滅するそのかたちの記憶が
もろいものだから不安なあまり
鍛冶屋が金床をうつように
だれだ、どこだ、なんだ、なぜだと
コツコツ打ちつける。




「自分のめに」が多面的に輝く。

自分とはどこまで自分なのか?

マインドで考えるレベルで自分なのか?

髪の毛先から、靴下の糸くずやらほこりやら

砂やらが詰った足の爪の先までが自分なのか?

皮膚と空気が触れ合うところまでが自分なのか、

エーテル、アストラル、メンタール、コーザルやらなんやら

ボディというボディを含めたボディが自分なのか

瓶の中のナッツはどこまでがナッツなのか

ナッツのはいった瓶はナッツなのか

ピスタチオのからはピスタチオなのか

殻がついてピスタチオなのか?

そもそも、自分の境はどこにあるか?

ないのか?自分までピスタチオなのか?

そうでないのか?などなど、

永遠に考えるほどこのダンスには体力が必要で

酔いが一気にまわるものだから

ロックグラスの中にこじんまりと鎮座する

丸氷だった氷をかみ砕いて

チェックと決め込み、

説教女はカウンターにへりくだり、

降伏しつつ、ときおりよだれなど

右腕でふきつつ夜は深まる。





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