2014年7月30日水曜日

シナモンコーヒー

とにかく、それはカプチーノとかではなく、
堅いアニスを含むクッキーと
つけた傷の忘れかたを日常の空気に
溶かし込んでもなお、
傷跡をゆびでさぐり
そのかすかな起伏をさすり
想いにしようとし
やや軋む木枠の窓をあければ、
立て掛けられた箒の傍らで
横にたおれたままの手押し車のハンドルに
蔓をまきつかせ
昼顔の花が咲いている庭が見える
その裏口の出口にもなる入り口のエントランスには
扉を多少邪魔する程度の無造作に茂る
ローズマリーが歩くふくらはぎにさわる。
砂糖の代わりの追憶もさほど
コーヒーに苦さを加えるものではく
時はいろいろきざみもするが
いろいろふさぎもすることを
雄弁というほどでもない静けさで
時折、語りもして
椅子の上で風呂敷が
何かを隠したかったのか
ただほおりなげられたのかわからず
自然なひだをやわらかくつくり
このかたちの臆をほどくと
ひろがる宇宙にとまどいもするのだろうという
めんどくささと、することになっている決心が
一秒一秒の家財一式森羅万象に
届かない恋文を書いたりもする。


2014年7月29日火曜日

スロウテキーラ

これは何度となく書き続ける


テーマではないことは


じゅうじゅう承知のすけ。


だがしかし、こいつは常に忘れられる。


だから、声せいいっぱいに


覚えとけ~。


思い出の酒にレモン汁が


はいっていないのは青春を


単なる殺風景な写真をあしらう額縁にするつもりか?


きうりがないのはまだしも、


あの酸っぱさがすっぱさがないのは、


単なる荒野でしかない。



そう、夏と言えば、


スローテキーラ。
甘酸っぱくも青々とグラスにささるキウリが
アクセントになる定番中の定番(のはず)。
モヒートがはやっている昨今、
スローテキーラの時代はいまだコズ。


きのう久々に畏敬ではなく
異型のスローテキーラにご対面。


スローテキラーに
キウリが入っていないbarが意外と多く
キウリが入っていないことに
慣れてしまってはいるので、
昨日はちゃんとはいっていて嬉しかった。が、
だが、しかし、このカクテルを
ビルド(ただ順番にグラスに注ぐ)でつくり
レモンジュースが入っていなかった。
*通常はシェイクでつくるもの。


テンダーはとても優秀で素敵な方。


カクテルは美味い。
この条件で色々考えた。


① うっかり
② ○BA最新式、或いはオレ流なスローテキーラ
③ 混んでいたので、まさかのショートカット。
  或いは、ぼくが少し酔ったように見えてなめられた
④ スローテキーラが昭和的で平成JUMP的ではないから。
⑤ スローテキーラが阿佐ヶ谷スタンダードでもはや幻想。
⑥ 流星のきらめき、天かける天馬のいななき
⑦ 人生疲れていてなかばやけくそ的な
⑧ ありのままの自分になるのよ的なありのままのスローテキーラになるのよ


帰り際、サブバーテンダーの人に、
「スローテキーラのレシピって、」と訊こうと
「つかぬことをお伺いしますが、」といったところで
やめた。


すべてのこだわりがあほらしくなって、
なんだかそれはそれでよいかなぁ、そいうことも
邂逅だなぁとか、ぼくの夏は高校野球予選球児とともに
もはや梅雨明け大暑の前日に終わりかけた。

2014年7月28日月曜日

トイレの灯りはきれたまま

歯ブラシのささった
ホーローのマグカップでコーヒーを飲むまでは
まだいいとして、タンカレーのずんぐりボトルを
冷凍庫からとりだして唇につくから
ラッパ飲みできないといって
ちびりちびりとそのホーローのマグカップで
飲むような老天使の夜は深まる。

部屋の天井の四つ角に主なき
蜘蛛の巣はすっかりほこりをかぶり
ここがまったく天国なのかと
疑いだけが影を落とし
なにも見ようとしないのは
なにも自分を正当化しあうもの同士の
充血した目の道筋でもなく

その警告のようなメッセージは
そうなるようにほくそ笑んで
愛が無いのが愛のような振りをして
愛を語り誰も愛そうとしない。

それは天井の四つ角から見た
アングルで、
この愛の振動にかたちになっている
我想う事無くなかなか明けない夜にぶらさがり
チェストの引き出しのすみで
太陽を探しでしている

2014年7月26日土曜日

風に弔う

留守電にコメントを残す時、

緊張して必ず噛んでしまう。

一発勝負のだいごみ。

ピーとなるまでに気持ちを整えるあまり

逆に胸は急上昇に高鳴る。

公衆のトイレにはいって

ノックされた時の行き詰った感にも似て、

電話を切ってもう一度かけなおして

録音の挑もうなどとも想いもするが、

それもめんどうだ、えいっとふんぎって

ピー音とともに第一声が裏返りもしつつ、

裏返った裏返った裏返ったぁ・・・と言う思いが

しゃべる思考と段違いも段違いの平行棒にもなるが、

それにもめげず、

さらに制限時間無制限でもあるわけもないのに

余計な挨拶までいれて時間切れになる。

気がついてみれば、

見ず知らずのご自宅の電話だったりして、

そこから始まるストーリーはない。



結局のところ、窓という窓を開けて、

明日という方角から心地よい風を招き入れ

風通しをよくするといことで

どうでもいいたぐいの

挫折にも至らない日々のしこりを

ほぐしにほぐし風に弔うだけ。



ただ言えるのは

残高少ない通帳の印字がやけに濃く

昨日停めた駐車場の領収証の印字がやけに薄く

濃淡はっきりた夕空をバックに

10円玉を後ろポケットから落とし

それが500円玉ではないこともはっきりわかるような

いずれわびしさ押し寄せやりきれないほどでもない空気感を

演出するには充分ではあるものの

空気感とはなんぞやという疑問に立ち返ると

ダイソン&メイソンに一掃されてしまう

うたかたもうたかた。





2014年7月25日金曜日

空転

番犬に喰わせる思想もなく
こじんまりした庭にベンチをもうけて
かたりあう内容は天気のこと、
ぼくらは失う前に失うものを

持っていなかった。

ふとなげかけた明日ということばに
とても薄いガラスがきさらと微かに
くだけてたくさんの世界を映し出してはいるものの
どれもくるりと反転してしっかりと見えない。

そう、見る事ばかりによりかかり、
自分たちのからだのありかを忘れてしまう。


ぼくらは隠喩をなにかのパスワードが

ないと解けないとおもっている。

もしくは、隠喩が何かのパスワードだとおもっている。

きりきざまないとたべられない果実だとおもっている。

まるごとかじるつくことはできないとおもっている。



本来隠喩とは解くものではなく頬張るものだ。


思わせぶりな陳腐な比喩に

裏の意味を見出しなにもでてこない

のぞくなと指示して、のぞくようにできている

シンプルな穴のあいた箱のように

切り裂くナイフの裁断とアナトミーで

かたちをかたちたらしめるプラーナーはちりぢり。


とにかく、この純粋さは

とても壊れやすく、

だからこそ純粋でいられて、

恐れをつくり壁をつくりもして、

純粋でないものになってゆく。



そう、染まることはわるくない、

染まらいことへの心地よい不安が

銀河を回転させる。

そもそもその不安が不安と呼ばれて

感じられて、味わあれているかは

それぞれの小窓から見た景色で

違い、



ぼくらは無意識のうちに

回転している。



2014年7月24日木曜日

たまごのピクルスやら、ウイスキーやら、熟した桃やら

たまごのピクルスをたべたことがある?

なんて訊かれたら

ないから驚いて見せるけど

その存在を知っていれば

驚くことにも演技が必要になる。


そもそも、驚くことなのかそうでないのかは

たまごのピクルスにまつわる

共有意識の有無だったり

興味の濃度だったり、

漬物とタンパク質代表選手の

立ち位置の差の認識だったりするかもしれない

が、そんなことどうでもよいと一昨日の引き出しに

未来への手紙をそっとしまう。

それはすでにたまご好きやピクルス好きの

魅力的話題づくりでもなく、

最後の晩餐から程遠い支流から離れた

取り残された池のような日々の泡。


そう、このたまごのピクルス、

メーカーズマークによく合うなぞ言われて

その相性で食べたいとは思わない自分がいる。

けれども、意外とバーボン好きのなかには

ステーキと一緒にバーボンのんだりする

ことを当たり前だとおもっている人もいて

その相性というより、その相性を好む人に

窓をあけて決して帰らない鳩を離すのだ。


さて、こちらはといえば

スコッチばかりを飲んで、生まれた国を忘れたかのように

バーボンはすっかり飲まなくなった。

それはそれを飲むと20代の自分を思い出すからか?

グランダッドを逆立ちして飲んだり

することもなかったが、逆流する事たびたび

よなよな10キロをふらふら千鳥足であるけるほどの

ガソリンにしかならない。

酒を飲んでいるのにすっかり知識を

飲むことになった輩になれば

後ろ手にしめる帰り際のバーの扉には

「後悔」ではなく「リグレット」、

もしくは「自己憐憫」と書いている。


よそよそしく感じる封を切ったばかりのスコッチにも

想い出は重なっている。樽で微かに揺れていた10年間に

自分がそいつの知らない場所で誰かに殴られ

誰かに接吻した記憶以外の忘れてしまった開けることのない

記憶がつまってはいるが思いだせない。

それはすでに処分された昔乗っていた自転車の鍵が

ひきだしのなかに

無数にある開けるためのカギだったものたちの中で

気に留められることを待たないでいるのに似ている。


barにふらりとはいることなく,満を持して

乗り込みスコッチだけで飲み倒して

気がつけばむだに富士そばで朝のそばをすする。

そもそも飲み倒すだけで

ウイスキーとの相性なんて考えない。

アテは「おれ自身」だというスタンス。

暖流にのってたまたま冷たいうみにやってくるクマノミのように

女性客が来ようものなら、意識して

意識したあげく、無意味に無口な男を装い

頭の中はむだにおしゃべりなオカマ芸者となる。

そもそもスコッチと食の相性など興味がない、

といいつつ、話のネタふりをされれば

その無口は雄弁に語りだす。

ボーモアと岩牡蠣の相性ほど鼻につくものはないけど

それはスコッチの鼻筋というやつか、とか、

ラフロイグの湯割りにつぶ胡椒をいれて

焚火にあたるというのは悪くない、とか

マッカランの10年のカスクストレングスリッター瓶と

フレッシュな熟したおんなのような桃との相性だとか

むだに自意識がスパークしつつ

アードベッグはやっぱりスモークしたたまごをたべながら

口蓋に黄身がくっついてなかなかはなれないなどといって、

たまごループをしてしまわないように

たまごのピクルスの話題はそっと

小さな胸にとどめて話さない。







2014年7月23日水曜日

do

n't be afraid.

って否定かよ!
「勇気をだしてみようとか
すでに持っている!とかじゃなく?」って
そんな甘い言葉期待しない。
そうbeということは期待しない
優れたありかただ。
湧き出てしまうこのたぐいの感情は
手ぬぐいふきとるわけもいかず、
源泉かけながすしかない。


ってなことをおもっていれば
安心安全、虎の均整。


否定される事に抵抗があると
それが歯石のようにほんとうに
石になったりして
たいへん。
そんなたいへんはたいへん
有難いと想えなどと
説教を喰らうとか
かんがえちゃいけないとか
ますます、
ややこしく我が身を愛する柔軟さは
現実とおもわれる
目の前のフォログラムを
重く硬化させることに比例する。



否定も肯定も
とりあえずいれたDMなみに
なにげない無意識で微妙培われた
言葉の選択。そこを商売にしようなどと
思いもせぬのだが、

焼酎をロックで飲みつづけると
レモンの月やキウリの千切りなどを投入して
軽く水槽のようになってしまって、
「弱気」とおもいつつ水割りにして
美味いか美味くないかは別に
惰性で飲み続ける九州男児
でもない俺様がそう想った瞬間、
九州男児の悲哀を踏みにじりもして
世界はいつも通り「まあるい」と
いうことにしている自分を慰める。



それじゃいかんとだれかの声を
肴にするまで。





2014年7月21日月曜日

救世主、ネガティヴへの執着

ネガティヴである自分を認めたら、
それは素晴らしい解放になっている。
でも、
そのままでいい?
そう、そのままじゃわがまま。
なんで?
そのネガティヴは あなただけのものではないから。
渦を巻いてみんなを引き落とし
きずなめあい、
ないきずをつくり
なめあう。

自然の流れは進化。

肯定も否定も実はどうだっていい。
けど、そのグルーヴってやつに
馬鹿ぽくものれるかどうか。

乗れない奴は
俺がなめてやる
そのきずとやらを、

お前がなめる前に。





2014年7月20日日曜日

ケサランパサラン

アスファルトをゆらす陽炎に

アザミの綿毛の種が飛び

風が乳母車の赤子の足指にふれるのは

連続した線的なつながりというより

雨粒が落ちてみずたまりをゆらす

点的な円波動。

埋もれたものを掘り当てる作業にもっともすぐれた

イヌやらブタやら、彫刻家やらで

始めはみんな得体のしれない

触手がかたちをなぞりはじめる。

それはまったくの好奇心からはじまり

自らの身体の発達を覚えるまでの気づき

春の動悸、息切れして果てる

目の前のまばゆい光にも

じきに慣れて、彼女のお腹は帆を張る。



ぼくらはひとつひとつの銀河で

時に不自然な不都合で

わがままにこの身体の危機をむかえるが

これを危機と言うのか宿した方向というかは

より思考をさまして考えることをやめなければならない

という義務や強制もなく

おわりとはじめをうしなうぐらい

ただ眺めることに終始埋没する。



ぼくらによって絶えづ自分は発見される。

はじめからそのかたちやらいろやらがあって

暗がりにも目が慣れてか

全容を掘り当てた気にもなる



この凧のようにあげられて分離したぼくらは

全体から常に離れて舞戻ろうとする

何かしらの引力により、

そして、また重力がない世界へと吸い込まれて

ひつつになる。何かを刻んで何かを忘れて、

ふわふわと空気をゆらす

ケサランパサラン

ケサランパサラン





2014年7月19日土曜日

きほん酔った頭

自分の話す話の筋が見通せない。
それはそれで先読みに
眉間にしわはきざまれることはないし
未来形の引き出しは
まばらな記憶の貝殻ひとつふたつ
ってそれは過去じゃないって
疑問符が常にたち
役にたたないものが未来に
ひしめくこともない。

そう、きほん酔った頭で
明日も昨日も考えない。
ぐらんぐらんと天地がひっくりかえったり
時に力をいれて焦点があったりすれば
もう眠気がその次にはやってくる。
かと想えば、立ち食いそばのたぐいを
たべたがりもして、そんなときは
食べた後のもたれる胃や手遅れなまでの
日々の財布にたまったクーポンやら、
身に付いてかえりみないセルライトなど
不健康なまでに健康を考える。

雨が降れば正気にもどり
布団をほしっぱなしにしてきたことを
想いだしては全力疾走は元の木阿弥
息きらして、蹴りとばす缶
もなし。

2014年7月18日金曜日

最終的にはニンジンの切り方がとても大事だったりする

描きたいことを描くのでなく

描くこと自体に集中している。


描きたいというスポットライトを

しぼってゆくと

とりこぼしてゆくなにかがある。


たとえば、カレーの材料に

こだわるあまりに

カレー粉を買い忘れたり、

挙句の果てにご飯を炊き忘れたり、

そうした

青春のエトセトラに集中するあまり

青春時代の記憶がより

模造された何かになってしまって

それは自分の記憶ではないなんていってしまう顛末。

あまりにも見つめられなくて

付き合ってみた顔が意外に

見覚えのない顔だったり、

それでよかったり残念だったり。


丁寧に丁寧に創ることに没頭してしまうと

それが短い時間だったのか長い時間だったのか

わからないぐらいにあとくされのない

創りしものと創られしものとの関係性に

紫煙をくゆらすことのないさわやかな空気がある。

そこでは思考が指に指図するのではなく

思考と指が二人三脚となり

時に指が思考を振り回し

指が思考になる。


どこまで指を這わせればいいのかわからないぐらい

指は駆け巡る

ヴェスビオの火山の縫い目に優しく指を這わし

薄い霧が山肌を濡らし厚くくなった雲が

麓に勢いよく雨をふらす。


そう、渾身の力はこんな時に

ふりだされ、やがてついえる。

玉ねぎを飴色にいためるまでの集中力、

スパイスを凡庸にしないためのエヅジのきいた

水分量、そして、結局は

丁寧に皮をむき

一定に切りそろえられたニンジンやら

夏の日差し。


ぼくらは深く潜ればもぐるだけ

失うと言う動詞が反転し、手放すことになり

一体になる。


2014年7月17日木曜日

北西の日向

福生の下、熊川にまではいかないところ。
家と家にはさまれた記憶の箱。
年を重ねたのはきみではく、
きみに年が重なり、まだ、ぼくらは若いまま。
風邪引くように恋をしつつ
恋をしていない時間を忘れて
東南から北西に吹き抜ける風に
思いだせない胸つまむ感触を
どこかへ求めても見つからない。


この店にたくさん
吊るされつているカレンダーが
かすかに揺れるのを眺めつつ
中華そば並と小ライスの
炭水化物炭水化物のダンスを
夢見ることはわるくない。
それを叶えたとしても
記憶は日日の泡となり消えもするが、
舌に重ねた記憶と内臓はしっかり肥えるのだ。


復活いぬい、ただ、
昭和感がかすかに揺らいで、
復活いぬい、ただ、
ただならぬ昭和のムードは
継承されつつ、
夏はこれからなのに
夏のおわりの淋しさを感じる。


涙に揺れる林、
この日差しにしょっぱい潤いも
乾きもするが、
ここにも宿命のよそよそしさが
静かに地球を運行させる。

2014年7月16日水曜日

ビル、ジャズ、ピアノで検索なんかしない

ビルのこと何もわかっていない

と言われても、こちらも好きなだけで

何もわからなくてもいいと想っているのだ、

そんな関係だってあるだろ?

っていうのもめんどくさい。


情で愛してしまうと、背景との

温度差が生まれる。

すべて目に見えて

見ていないその他大勢を自分勝手に

冷ややかと思うのは勝手だが

藪から棒を突き出して

冷ややかな方へ語りかけるのは、

夜道の自転車歌うたいが人の気配に

声を縮める羞恥心ぐらい持ちなさいと

後ろ手でドアをしめて立ち去る最後の説教だ。


彼の糸こん好きなどきみなどは

日々の天気ほどの興味をくすぐらない。

彼女の背中のほくろの数は

彼女自身もしらない。


しりたがりがけつまくって

投げ出したゲームは

敗戦処理投手を生み出した。


なかなかこのゲームは終わらない。

その瞬間、

故郷の海でイルカが飛び跳ねているだろう。

その瞬間、

ロッキングチェアが静かに揺れ幅を縮めるだろう。

鳩が啼く木の下を通り過ぎ

急に啼きやみぼくはここにいた。


そう緩慢な死などはじめからなく
あるという幻想がなければ
サドンデスでハッピーさ。
けど、その奥行きはあったなんて
この舞台ではいいっこなしってことで、
きみは逃げながら逝った



2014年7月15日火曜日

ジンとライム

ジンとライムの関係は
きっとはじめは出逢ってはいけないと
思われた出会いだったのかもしれない。

ジンライムは地下の味がし
ギムレットは温もりの無い
ひんやりとしたスツールの記憶を呼び起こす。

天真爛漫な組み合わせが
石を積み重ねるように
意識が意味を形作る。

それはぼくがバターシュガートーストを
食べた時がそうだ。
それはそれとして話を
折り畳まれたボードゲームのように拡げると
感傷的でもないのに感傷的になってしまい、
ひとから涙をいただきつつ
3マス戻れとはあっても
前のめりな人生を語り
ルーレットに一喜一憂して
後戻りが出来ない
嘘をつけ続ける。
その札が偽物だろうが本物だろうが
虚しさを覚えるのはゲームの後だ。

そう、ギムレットはジンとライム、
多くが、シュガーを入れて
シェイクするカクテルだが、
そのままふらすずに飲む
ジンライムとは味が違い
シェイクする人によって
同じ容量だとしても違う。
そう、ぼくらは
ジンやライム、シュガー氷、
手の温度さまざまな要因を考慮するが
それだけでもなく、
青信号を赤信号ぎりぎりで渡いた
その空気も勘に触れたりするかもしれないし、
トイレのフラッシュのレバーが緩いことに
起因するかもしれない。はたまた、
毎日、同じコーヒーを飲んでいるとおもったら
全く違うコーヒー豆であったとか、えとせとらえとせとら

そう、いつかの日も
流しの片隅に
ライムの月がたまり
プリマスも胃袋におさまり
空瓶のまま冷凍庫に眠り

夜空には雲の上に
ぼくらを覗き見する星ぼし。
なかなな幕が開かない

2014年7月11日金曜日

雨とコインランドリー

雨降りは嫌いじゃない、

ってなことを言うと

ロマンチストだねぇとか詩人だねぇとか

雨に打たれてろぉ、

とか関わってくれるだけの

優しいことばを掛けてくれるが、

ここは高速道路。


水しぶきの音にも慣れて

一定の間隔で上り下りするワイパーの音だけが

静けさの雫もぬぐいさっている。


さらに、

雨上がりの空気を吸い込むと

想いもよらぬものが

汚れた空を浄化しているような

気もする。

雨の中を街頭にとまる3羽のカラスや

静かに水辺に着水する鷺の類。

単に、雨があらいながしたとかではなく

雨の粒子が少し変化しているかのような

感覚。まるで、日差しが

雲に圧をかけて生まれた

光の言葉。


こんな日のコインランドリーはむだに

ひとの家と洗剤の匂いで

空気の密度が濃く厚みを帯びて

冷たいところを気流が探す。

蛇が箱のすみづみをさがしまわるように、

猫がとりあえず置かれた場所を確認するように

好み知らぬ空間に放りだされ

嘔吐するひまなどないのだ、

我ら生活臭。

酔った身体が大理石をどこかで求めるように

静かな帳を求めるはひとの性、

いきつくところはすでにここにある。


ドラムが回る音が外の

雨と雨の隙間をより明瞭にして

時折、潜水夫がドラムの窓から手を振る

訳もなくパンツやらタオルやらの絵柄が

交互にやってきたりやってこなかったり。

ブ―ザーとともにドラムの回転がとまると

その部屋にだれもいない。


2014年7月10日木曜日

くの字に曲がる脚

気がかりなのは

部屋にあの黒光りした柔らかい背をしたやつの

後ろ脚だけ1本、絨毯の繊維の小さな輪っかに

その鉤足がかかっていたりすること。

本体はどこなんだと想ったり、

妻が掃除を毎日鬼の形相でしてるいるのに

なぜこんな見た目綺麗な部屋に?

とむだに?マークを付けて、

その?は冷蔵庫の扉にはりつける

ガス屋やら似非水道屋やらのマグネッのように

部屋の空気になってゆく。


どこから来てどこへ消えたのか?

哲学的な命題よりもリアルにミステリアスで、

どこかでだれかが張り付けてきたのか、

それとも風にのってひらり~と紛れ込んできたのか

リアルな検証をしてみたりして

そのお土産のように置いて行かれた

ご自身の左脚か右脚か、

「よく見ると右後ろ脚か」的な冷静さに

頭が冷めるまでには時計が視界から消えるほどの

時間を要する。


たしか、ジョン・フォークスと言う人が

「ビートルレッグ』という小説を書いたと想ったのだけど

それは友達がかたるビートルレッグという響きのみでしか

僕の記憶にはなく、

そのカブトムシの脚が

土地の震度計のグラフの

隠喩だとかそうでないのかは

本の中味に真実はあり

まだ読んでいないからなんと

もいえないのだが、

そんなぼくのこころの針の振れ具合は

まさにその黒い脚、くろというよりは

シャイニーダークブラウンといった

むだに響きの良い英語が大和魂を

すりガラスの向こうに隠してくれる。


さて、昨晩地震ありました?って

話はじめにしてみようときめて

話し始めは今朝みた、空き地にできる

スーパーのことだったり、

人生には置き忘れた話のネタは尽きづ

宇宙の片隅で出口をみつけられず熱死して

その後の微粒子の振動まで追わない。





2014年7月9日水曜日

「だったら訊くなよ」って言っても言わなくてもいいよ、きみには沈黙がいつもよりそう

たとえば、パンツを買ったら、
そう、ズボンをカッコ良くいうパンツではなく
アンダウエアのほうだ、
そうその肌着のパンツを買ったら
すぐ洗うか履いてから洗うか
そんな質問を想いもせず何気になげかけると
「洗うのがあたりまえでしょ?」という赤縁眼鏡女が
世界の常識と化して質問をゴミ箱へほおりなげようとうすると、
髭をそりわすれただけの真正無精髭男が
「おれ、洗わず履く」とかのたまい
ゴミ箱が倒れ今までのごみくずがなだれのように転げ出してくる。

ノリがついた硬さやそれまつわるいたみ、
ノリのパリッと感や、新品のスリルなど
屁理屈理屈が飛び出して 、挙句の果てに
肉まんはからし酢醤油じゃなくてソースだとか何もつけないとか、

ノーパンは健康にいいとか
赤のことヴァーガンディとかいうやつは国賊とか、

当人の記憶の中にもないセリフを持ちだし
だけどワインはボルドーが好きとかお前の趣味きいていねぇよとか
言葉づかいから記憶づかいまであれてくる始末
やっぱり赤パンだねと意見の一致で和平交渉はひとまず成立して、
播き散らかしたゴミくずをゴミ箱の中にもどしたり
もどさず誰かに任せたりして

また空気を殴るような紛争に
そのどつかれた沈黙した空気の
自意識へのやさしい暗殺がつづく。
















2014年7月8日火曜日

むだであるかそうでないかは足をいれて浅いか深いをたしかめるしかない

むだ毛とは確実につくりあげられた概念だ。
だからと言って抵抗する訳でもなく
伸ばしたい放題伸ばす訳でもないし、
そんな女性が大好きだとも嫌いだとも言わない。
しかし、「大好きだとも嫌いだとも言わない」と言い方にも
含みがあり、「好きかもしれないし、好きでないかもしれない」という
水平線をゆらぐ太陽のような想いにしばし
黄昏てしまうこともある。
なんの反応もしてくれない大海に
石でも投げてみたくなったりもする。
口の中にはいったじゃりっとした砂の想い出を
吹けもしないトランペットをふくようにはきだしたくなるかもしれない。

さて、ある文脈で
hairyと言葉をどう訳すかどうかを
1時間なんやんだことがある。
同席していた輩が「けむくじゃら」と訳していたのだが、
ぼくは何を勘違いしたのか「妖精めいた」と訳したのだ。
つまり僕は確実にhとfを読み間違い、
同席したその鼻筋とおった少年の面影残る
輩に鼻で笑われ、
僕は決して見上げてはいなかったけど
見下ろされる存在にされてしまった。
が、その瞬間、
それを聞いた教授が目を丸くして
小躍りするように驚き
なぜそんな訳をしたのかを輝きにました眼で訊いてきた。
その瞬間、その鼻筋通る君が
fairyと勘違いしたんじゃないですかぁと
ハンズマリの鼻声でコメントした瞬間、
はぁ~と教授の鼻から軽く息が漏れ
ひどく落胆したようだった。
あの「妖精めいた」と訳した時の
目の輝いた「なぜは?」
30年前の記憶のかなたにある
今はその跡地が駐車場になっている
ラーメン家のほこり被ったサンプルにもにて
頭の中でも食べることが出来ない。
そう、教授とぼくと鼻筋の沈黙はその後
チャイムが鳴るまでつづいたのだった。

だがしかし、髪は神聖なものである。
妖精が関わるもの。
もしかすると妖精のなせるわざかも。
いやいや妖精が育んで
もはや妖精めいたものかもしれない。
単なるかたちとしての髪以上に
命あふれる姿をしたものには
光の毛根があり毛髪がある。
命の象徴で神々しく風に
金色に波打つ収穫間際の麦畑のようでもある。

麦畑と言えば、
風呂からあがった吹き終わった
4歳児の息子の背中の産毛をみていると
クロップサークルのように
迷路のようになっていて見ていてあきない。
そして、はっとして気づく。
ぐっとしてちからがこみあがる。
これは有意義な毛であるかもしれない。
そうに違いない。
有意毛というものもあるのかないのかと、
ふと思った瞬間に、
排水溝につまった髪の毛をとらなきゃなぁなんて
ぬるぬるした記憶がよみがえって、
ウサギの毛を飲むような
気持になったりならなかったり、
外で風鈴の音が鳴っては次がならない。

2014年7月6日日曜日

自由度とアフロからの革命

プチアフロから普通の七三にかえた

職人のお爺さんの

直毛革命を考えていたら

いろんな妄想が思い浮かぶ。


実はあのアフロは天然だったのか、

もしくは、もうそのスタイルを

維持するのが辛くなったのか、

あの直毛が物語る老け込み方は

挫折であったのか革命であったのか。



さて、自由になれるひとと

なれないひととかいう話を

よく聞くと想う。ってこともないかもしれないが、

たいがい、人は自由なんだなぁと想う。


ただ、人の認識によって「自由度」が違う。


縛られていることで自由を見出す人もいるし、

ぜんぜん解放されていると思われるのに

「自由」を見出せないひともいる。


「自由になりたい」と思っている方の

おおくが後者である可能性も高い。


「こうであらねば」という自分の想い癖や習慣に

自ら自由に縛りつつも

「自由になりたい」というスイッチが稼働する。


変化を起こす時はだいたいこのスイッチが稼働している。


さらに、自由であるかないかも

そもそも想い癖のようなところもある。


自由度を考える時は

自由でないとは考えない。

エネルギーの方向性に

滞りがあるかないかにすぎない。


さらに俯瞰してみると

宇宙はさらに自由だ。

自由そのものだ。

柔軟な秩序のものとに

しなやかな自由があり、

こうやって命を携えて地球に

降りてきたことじたい自由で、

その生きる場所を選んだのも自由だ。

ぼくらの楔のような

「なぜ?」が深い意図と

自由のものとにシンプル応えとなって

生きている。

たちどまって思考するぼくらにが

複雑に絡み合い

この身を呪いさえもし

宇宙の横顔(があるならば、)が

やけにつめたくよそよしく

洞窟のフレスコ画のような暖かみさえないように

思える。そう「思える」というのは立ち止まるぼくら。

疎外感を抱えつつぼくらは糸のようなものに

宇宙と繋がれているかのように錯覚してはいるが、

ぼくらは宇宙のそのものなのだ。

宇宙はシンプルに自由だ。

最近、これを実感している。


「自由でない」と感じた時は

どこかで、革命が起こる瞬間だ。

そう口にして、何も起こらないのなら

こころの奥底でそこを楽しんでいる

のかもしれない。


とにかくアフロから

ストレイトなヘアに変える時は

その落差による心理的スロープが

右肩上がりか左肩さがりかは

わからない。

長い髪を剃髪して

頭を丸める衝撃や覚悟でも無く

野球少年が野球をやめて

坊主から色気づいて

髪の毛を伸ばし始める時の春とは違う

反転の自由がそこにはあるようなないような。


2014年7月5日土曜日

アフロと9条

前までプチアフロだった
近所の職人のおじさんが
髪形をかえたらお爺さんだった。

アフロヘアには
それなりの若返りの秘薬が
あるのかもしれない。



さて、憲法九条をノーベル賞に
というはなしがあるが、
ノーベル賞というものを
深く考えるとそれも微妙だ。
九条の方がノーベル賞から
はみでるぐらい輝かしいのだ。
ノーベルにかしずくものでもない気もする。



さて、さらに俯瞰して考えると
九条よりはるかに進化した
平和が前提で、平和を進化させた
憲法を創ることも
未来には必要になる。



現行では動かすことのできない
漬物石のような九条でもあるのだが、
そういう意味では過去となる今は
さすがに過渡期だ。
それを覆そうとする輩も顕われる始末。
九条は、人殺しをしないことを
誓うというだけのものではない。



なので、とりあえず、
現行の九条をめいいっぱい活かす
妙薬のようなアフロヘアが
今は必要だ。
戦争をしないのが当たり前なのだ。
人殺しをしないのが当たり前を通り越して
何それって感じなのだ。
圧倒的な和の力を召還してしまう時は
すでに来ている。