2014年7月8日火曜日

むだであるかそうでないかは足をいれて浅いか深いをたしかめるしかない

むだ毛とは確実につくりあげられた概念だ。
だからと言って抵抗する訳でもなく
伸ばしたい放題伸ばす訳でもないし、
そんな女性が大好きだとも嫌いだとも言わない。
しかし、「大好きだとも嫌いだとも言わない」と言い方にも
含みがあり、「好きかもしれないし、好きでないかもしれない」という
水平線をゆらぐ太陽のような想いにしばし
黄昏てしまうこともある。
なんの反応もしてくれない大海に
石でも投げてみたくなったりもする。
口の中にはいったじゃりっとした砂の想い出を
吹けもしないトランペットをふくようにはきだしたくなるかもしれない。

さて、ある文脈で
hairyと言葉をどう訳すかどうかを
1時間なんやんだことがある。
同席していた輩が「けむくじゃら」と訳していたのだが、
ぼくは何を勘違いしたのか「妖精めいた」と訳したのだ。
つまり僕は確実にhとfを読み間違い、
同席したその鼻筋とおった少年の面影残る
輩に鼻で笑われ、
僕は決して見上げてはいなかったけど
見下ろされる存在にされてしまった。
が、その瞬間、
それを聞いた教授が目を丸くして
小躍りするように驚き
なぜそんな訳をしたのかを輝きにました眼で訊いてきた。
その瞬間、その鼻筋通る君が
fairyと勘違いしたんじゃないですかぁと
ハンズマリの鼻声でコメントした瞬間、
はぁ~と教授の鼻から軽く息が漏れ
ひどく落胆したようだった。
あの「妖精めいた」と訳した時の
目の輝いた「なぜは?」
30年前の記憶のかなたにある
今はその跡地が駐車場になっている
ラーメン家のほこり被ったサンプルにもにて
頭の中でも食べることが出来ない。
そう、教授とぼくと鼻筋の沈黙はその後
チャイムが鳴るまでつづいたのだった。

だがしかし、髪は神聖なものである。
妖精が関わるもの。
もしかすると妖精のなせるわざかも。
いやいや妖精が育んで
もはや妖精めいたものかもしれない。
単なるかたちとしての髪以上に
命あふれる姿をしたものには
光の毛根があり毛髪がある。
命の象徴で神々しく風に
金色に波打つ収穫間際の麦畑のようでもある。

麦畑と言えば、
風呂からあがった吹き終わった
4歳児の息子の背中の産毛をみていると
クロップサークルのように
迷路のようになっていて見ていてあきない。
そして、はっとして気づく。
ぐっとしてちからがこみあがる。
これは有意義な毛であるかもしれない。
そうに違いない。
有意毛というものもあるのかないのかと、
ふと思った瞬間に、
排水溝につまった髪の毛をとらなきゃなぁなんて
ぬるぬるした記憶がよみがえって、
ウサギの毛を飲むような
気持になったりならなかったり、
外で風鈴の音が鳴っては次がならない。

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