2014年7月18日金曜日

最終的にはニンジンの切り方がとても大事だったりする

描きたいことを描くのでなく

描くこと自体に集中している。


描きたいというスポットライトを

しぼってゆくと

とりこぼしてゆくなにかがある。


たとえば、カレーの材料に

こだわるあまりに

カレー粉を買い忘れたり、

挙句の果てにご飯を炊き忘れたり、

そうした

青春のエトセトラに集中するあまり

青春時代の記憶がより

模造された何かになってしまって

それは自分の記憶ではないなんていってしまう顛末。

あまりにも見つめられなくて

付き合ってみた顔が意外に

見覚えのない顔だったり、

それでよかったり残念だったり。


丁寧に丁寧に創ることに没頭してしまうと

それが短い時間だったのか長い時間だったのか

わからないぐらいにあとくされのない

創りしものと創られしものとの関係性に

紫煙をくゆらすことのないさわやかな空気がある。

そこでは思考が指に指図するのではなく

思考と指が二人三脚となり

時に指が思考を振り回し

指が思考になる。


どこまで指を這わせればいいのかわからないぐらい

指は駆け巡る

ヴェスビオの火山の縫い目に優しく指を這わし

薄い霧が山肌を濡らし厚くくなった雲が

麓に勢いよく雨をふらす。


そう、渾身の力はこんな時に

ふりだされ、やがてついえる。

玉ねぎを飴色にいためるまでの集中力、

スパイスを凡庸にしないためのエヅジのきいた

水分量、そして、結局は

丁寧に皮をむき

一定に切りそろえられたニンジンやら

夏の日差し。


ぼくらは深く潜ればもぐるだけ

失うと言う動詞が反転し、手放すことになり

一体になる。


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