2014年7月6日日曜日

自由度とアフロからの革命

プチアフロから普通の七三にかえた

職人のお爺さんの

直毛革命を考えていたら

いろんな妄想が思い浮かぶ。


実はあのアフロは天然だったのか、

もしくは、もうそのスタイルを

維持するのが辛くなったのか、

あの直毛が物語る老け込み方は

挫折であったのか革命であったのか。



さて、自由になれるひとと

なれないひととかいう話を

よく聞くと想う。ってこともないかもしれないが、

たいがい、人は自由なんだなぁと想う。


ただ、人の認識によって「自由度」が違う。


縛られていることで自由を見出す人もいるし、

ぜんぜん解放されていると思われるのに

「自由」を見出せないひともいる。


「自由になりたい」と思っている方の

おおくが後者である可能性も高い。


「こうであらねば」という自分の想い癖や習慣に

自ら自由に縛りつつも

「自由になりたい」というスイッチが稼働する。


変化を起こす時はだいたいこのスイッチが稼働している。


さらに、自由であるかないかも

そもそも想い癖のようなところもある。


自由度を考える時は

自由でないとは考えない。

エネルギーの方向性に

滞りがあるかないかにすぎない。


さらに俯瞰してみると

宇宙はさらに自由だ。

自由そのものだ。

柔軟な秩序のものとに

しなやかな自由があり、

こうやって命を携えて地球に

降りてきたことじたい自由で、

その生きる場所を選んだのも自由だ。

ぼくらの楔のような

「なぜ?」が深い意図と

自由のものとにシンプル応えとなって

生きている。

たちどまって思考するぼくらにが

複雑に絡み合い

この身を呪いさえもし

宇宙の横顔(があるならば、)が

やけにつめたくよそよしく

洞窟のフレスコ画のような暖かみさえないように

思える。そう「思える」というのは立ち止まるぼくら。

疎外感を抱えつつぼくらは糸のようなものに

宇宙と繋がれているかのように錯覚してはいるが、

ぼくらは宇宙のそのものなのだ。

宇宙はシンプルに自由だ。

最近、これを実感している。


「自由でない」と感じた時は

どこかで、革命が起こる瞬間だ。

そう口にして、何も起こらないのなら

こころの奥底でそこを楽しんでいる

のかもしれない。


とにかくアフロから

ストレイトなヘアに変える時は

その落差による心理的スロープが

右肩上がりか左肩さがりかは

わからない。

長い髪を剃髪して

頭を丸める衝撃や覚悟でも無く

野球少年が野球をやめて

坊主から色気づいて

髪の毛を伸ばし始める時の春とは違う

反転の自由がそこにはあるようなないような。


0 件のコメント:

コメントを投稿